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【さかいめ革命VOL.5】カミングアウト

 

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10月。急激に世界が秋めいて、ちょっと焦りを覚える今日この頃。

本日10月11日は、カミングアウトデーなんだそう。
それに先立って、祝日の昨日「1011イチゼロイチイチ−カミングアウトと家族−」というイベントが開催されました。

 

カミングアウトっていうのは、自分のアイデンティティの一部を取り出して語ることだと思う。

たとえばここにゲイがいたとして、彼が「ゲイである」ということはまちがいなく彼のアイデンティティであるけれど、彼が「ゲイである」ことが彼のアイデンティティのすべてでは決してない。
セクシュアリティだけがアイデンティティではない。

なのに、星の数ほどある「わたし」を形容する言葉のなかで、ことさらセクシュアリティを取り出して語るのは、それが語られなければ他者からはわからないものであるからで、なおかつ、それが「わたし」を構成するきわめて重要な要素のひとつだから。

 

なぜ、わたしたちはカミングアウトするのだろう?
なぜ、わたしたちは外から見えない「わたし」を他者に知ってもらいたいと思うのだろう?

 

知ってほしいというよりも、隠している状態が苦しい。
そんな感情のような気がしてくるのです。
家族や友人、身近で大切な人たちに、時々偽りの自分を演じなくちゃいけないことへの罪悪感。
最も自分らしい内なる自分が認知されない、受容されない、孤独感。
とても身近な存在だからこそ言いづらくて、言えていないことにわだかまりを感じる。
セクシュアリティのカミングアウトという一大事に直面したことのないわたしも、それと似た感覚を知っている。

 

それでもLGBTにおけるセクシュアリティのカミングアウトを特別なものにしているのは、わたしたちの意識の根底に、それが「明確に他者と異なるアイデンティティである」という前提があるからではないか。

セクシュアリティはただの記号でしかなかったのに、「わたし」を語るもっと色鮮やかな無数の形容詞たちがそれの前に霞んでしまうのはとてももったいないなと、思わずにはいられないのです。

 

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