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おうち、てらす

VOL.7 『誕生日を知らない女の子』を読んで

 

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どのページを開いても強烈なのだけれど、あえて2つに絞るならば。

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1つめは、とあるファミリーホームの里親の言葉。

 

「彼の学習が遅れているのは、彼のせいではありません。今までの環境がそうさせているのです。彼にそうさせてしまった社会に、私たちはいます

「彼は四年生の時、大人になるのはつらい、死んだ方がいいと言っています。そうではなくて、生きていてよかったと、自分のことも他人のことも大切にできて、少なくとも稼いだお金で暮らしていけて、俺ってなかなかだって、そう彼が思えるために、私たちは努力しているのではないですか」

 

特別なことを、特別な思いを持ってやらなくちゃいけないわけじゃないんです。わたしが目を背けられないのは、わたしが何か動かずにはいられないのは、これが理由なんだと腑に落ちました。

 

 

2つめは、わたしのお腹から湧いてきたもの。ふつふつと、やりどころのない怒り。

なんで。

なんで、そこまで”お母さん”に囚われなくちゃいけないの?

 

「奴隷でもいいからお母さんと暮らしたい」

「お母さんに振り向いてほしい、私を見てほしい」

 

痛ましいほどに彼女たちは、”お母さん”を求めていました。そのためならば、今までに積み上げてきた何もかもを投げうてる。

それなのに、その先にあるのは失望。空虚。

 

ボロボロになりながらも、それでも”お母さん”の幻を追いかけてしまうのは、愛着形成の過程が抜け落ちてしまっているから…それも当然あるのだろうけれど。

社会が過剰に”お母さん”を神聖化していることが、これを助長させているように思えてならないのです。

それが余計に、悔しいのです。

 

黒川祥子『誕生日を知らない女の子 虐待−その後の子どもたち』(集英社)

 

 

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