〈家族になる〉ってなんだろう?

家族、ってわたしたちは日々口にするけれど、誰から誰までが家族なのか、何をしたら家族なのか、何をしなかったら家族なのか、どのくらい離れていても家族なのか、そういうものをあれこれ真面目に考えはじめると、実に深い。

簡単には説明しつくせない家族というものを、あっちからこっちから切り取りながらその手がかりを見出したい。そんな途方もない試みをはじめます。

名付けて、「カゾク鼎談」。

 

記念すべき第1弾。

ご一緒いただくのは、世界中に家族をもつトモさんと、結婚相談所の所長タテカワさん。トモさんの素朴な疑問「〈家族になる〉ってなんだろう?」をテーマに新宿某所で語り合いました。

 

♠〈家族になる〉ってどんな感じ?

タテカワ:〈家族になる〉っていうときに、みんなが最初に思い描くものってたぶん全然ちがうと思うけれど、僕はシンプルに〈結婚〉と思う。

 

ワタシ:婚姻届を提出する法律婚に限らない広義の結婚、つまり〈パートナーシップを結ぶ〉ということと、そこに子どもなりペットなりの〈新しいメンバーが加わる〉こと。この2つかなあ。

 

タテカワ:そう、ペットってもはや家族なんだろうなって思うんですよね。最近その感覚がわかるようになってきたんですけど、たとえば飼い犬が死んでしまうって、娘が死んでしまうぐらいのことなんだろうなって。

 

ワタシ:犬ならそう思えると思うんですけど、金魚だとそうは思えないんじゃないですかね?

 

タテカワトモ:ああ~…(笑)

 

ワタシ:コミュニケーションが取れないから…。

 

タテカワ:逆に言うと、コミュニケーションが取れたら無生物でも家族ですか?

 

ワタシ:む、無生物?

 

タテカワ:たとえばほら、新型aiboとか。

 

ワタシ:aiboって、ロボットのくせに天気予報も教えてくれないって知って最近びっくりしたんですけど、きっと彼らに求められているのはそういう便利さじゃなくて、寂しさを埋めてくれるとか、自分がここに存在することを確認できることなのかなって。

 

タテカワ:それが、家族ってことなんですかね。

 

ワタシ:だとしたら、各々の心の寂しさ度合いによって家族になりうるかのラインが変わるのかも。

 

トモ:自分の生活の一部になっているもの、寂しさを埋めてくれるもの、というのがポイントかもしれないですね。わたしは実家を出たときに、第二のおばあちゃんとか第二のおじいちゃんだなと思えるような人たちに出会ったのですが、やっぱり距離的な近さというのが大きかったように思うんです。地元に血縁のある祖父母がいるとはいえ、実際に関わりが多いのは近くにいる人。 血縁の祖父母の代わりになってくれて、ご飯を作ってくれたり話し相手になってくれたりしたんですよね。

 

ワタシ:まさに遠くの親戚より近くの他人ということですね。

 

♣家族のような関係

ワタシ:ここまでで2種類の〈家族になる〉というあり方が出てきたように思うので整理しましょう。1つが、血縁とか結婚とか出産っていうような社会通念上の〈家族〉を形成すること。そしてもう1つが、社会通念上は家族とは認識されないけれど、それに近しい関係性としての〈家族〉を形成すること

 

トモ:わたしの第二のおばあちゃん・おじいちゃんというのは、後者ですね。

 

ワタシ:それから、今回トモさんが話題提供してくれた「大家さんといつのまにか家族になっていた!」という矢部太郎の話もそうですよね。

 

カラテカ矢部太郎さんは、88歳の大家さんとこうやって家族になった

 

タテカワ:本来は大家さんとお客さんという家族とはかけ離れた関係性なのに、それが〈家族〉と思えるようになるってことですよね。

 

トモ:矢部さんは大家さんとの関係を「生活の一部になっている」、「いて当たり前という感覚」と語っていて、それすごく共感しました。そういうところが血縁の家族と重なって、もともと他人だった人と〈家族になる〉関係が作られていくのだろうと。

 

ワタシ:生活の一部だけど家族って必ずしも思わない関係性ってあるような気がしていて。かつて寮生活をしていたとき、ルームメイトたちはまさに「生活の一部」で「いて当たり前」の存在でした。よそよそしくしていたわけでもまったくないけれど、当時それをあえて家族と重ねることはしなかったんですよね。年齢が近い人たちの集まりだったこともあるかもですが、家族になれるかどうかの分かれめって何だろうって。

 

タテカワ:もし矢部太郎の大家さんがおばあちゃんじゃなくておじいちゃんだったら、あの関係性にならなかったと思うんですよ。性別は結構重要なんじゃないでしょうか?

 

ワタシ:社会的に期待されている家族の役割がふとしたときに再現されたときに、「あ、家族だ」って思うのかもしれない。たとえば、矢部さんが仮におじいちゃんっ子だったとしたら、大家さんがおじいちゃんでも同じように思えたかもしれないし。

 

タテカワ:男性目線で思うのは、女性の方が家族を作りやすいんじゃないかって。女性は家族の中心にいるような感じがある。年に1回親戚一同がおばあちゃんのもとに集まるってイメージしやすいけれど、おじいちゃんの場合は考えにくくないですか? おばあちゃんは家族の精神的支柱になりやすいような。

 

ワタシ:それが女性に求められてきたっていうのはあるでしょうね。女性としてケアを担うべきという規範があって、それに従った結果、家族のみんながその人を心の拠りどころにするに至るという。

 

トモ:出産のイベントがあることも影響しているのかなって思います。「自分の家族は母親が繋いでいる」という友人の話を聞いたことがあって。自分が産んだ子どもという意識が、家族を繋ぎ止めたいという気持ちに結びついている。出産というイベントはそれくらい、伴うものが多いのかもしれない。

 

ワタシ:子どもっていう意味での家族のメンバーが加わる体験というのが、自分のお腹から生まれてくるという出産を経た母親のそれと、それを見ている側だった父親のそれとでは大きく異なるであろうという意味で、出産のイベントが男女の〈家族になる〉感覚の差異を生み出しているというのはたしかに納得できます。ただその一方で、出産を体験していない女性も同じ女性のくくりで男性とは違うっては言えないだろうと思うんですよね。

 

タテカワ:今、2つくらい思ったことがあって。1つめは、男性って(って主語でかいですけど)自分の子どもかどうかってことに女性ほどはこだわっていないんじゃないかって。

 

トモ:そうそう。知人の男性から聞いたのが、子どもが喋れるようになったくらいから「あ、自分の子だ」って感覚が持てるようになったという話。それまでは正直自分の子どもという認識がなかったという。

 

ワタシ:そういう話、よく聞きますよね! やっぱりペットと同じで、子どもすらもコミュニケーションがとれることは〈家族になる〉条件なのかもしれない…(笑)

 

タテカワ:実際、男性が自分の子どもであるかにこだわることは生物学的には合理的ではなかったんですよね。今でこそテクノロジーが進歩してDNA鑑定ができるようになったけれど、それ以前はわからなかったわけだし。

それともう1つが、うちのお客さんでも「子どもはほしくない」っていう女性が2、3割はいるんですよ。他方の男性はほぼほぼ100%ほしい。そして2、3割のうちかなり多くが、いざ結婚を目前にして「この人の子どもがほしい」と言うようになる。ほかの子どもはかわいくないけど、この人の子どもなら愛せる気がするって。そういう違いはあると思います。

 

トモ:わたしの知り合いも同じこと言うんですよ。自分の子どもはかわいいと思うけれど、よその子どもはちっともかわいいと思えないって。出産というイベントを経験していないので自分ではわからないのですが、そういう感覚なんだなあって。

 

ワタシ:…この人の子どもがほしいって、ある意味すごく怖いですよね。その人が嫌いになった瞬間に、子どもも嫌いになるじゃないですか。

 


★ワタシのひとりごと(1)

〈家族になる〉条件として役割や子ども観の性差が話題の中心に上りました。今回、比喩的な家族として挙げられたものがいずれも、親と子あるいは祖父・祖母と孫というような世代をまたぐタテの関係性だったことも大きかったのかもしれません。

一方で、きょうだいやいとこのようなヨコの関係としての〈家族になる〉事例もきっとあるはずで(わたしの寮生活は該当しなかったけれど)、そこではもっと別な〈家族になる〉条件が考えられるのかも…?


 

♥源流としての家族

タテカワ:自分は人との距離を測るのが苦手で、だいたい近めなんですよ。素で接すると近くなっちゃうから、考えながら離して接するんですよ。逆の人とかいるじゃないですか、人との距離が詰められずに悩む人とか。距離感みたいなのって多様なコミュニティに属することで学ぶ。お母さんと小学校の先生の区別って、お母さんがいて小学校の先生がいるからこそつくわけじゃないですか。小学校低学年ぐらいの子って、学校の先生のことを「お母さん!」って言っちゃったりする。

 

トモ:います、絶対いますよね!

 

タテカワ:言ったことないですか、1回くらい。区別ついてないんでしょうね。家族になるということの手前に、各々家族というものに対する見方があって。そういうふうに、自分の家族というものを持っていることが基準となって社会に出会って関係をつくっていくんだろうなと。

 

ワタシ:冒頭の〈家族になる〉の2分類でいうところの前者、社会通念上の〈家族〉、あるいは原体験としての〈家族〉というものがベースになっている部分はかなりあるでしょうね。

 

タテカワ:意思決定を形づくるものっていろんな要素があるなかで、なかでも家族は寄与率が高いと思う。今の自分があるのはあの家族のなかで生まれ育ったからこそ。自分が人生でどう決定していくかは、自分の意思決定でもあり環境による意思決定でもある。その源流はわりと家族にあるんじゃないかと思うんですよ。

 

トモワタシ:うんうん。

 

タテカワ:ある意味視野の狭い見方をすると、一個人の人生は生まれ育った家族によってほぼ規定されているのではないか。それぐらいのインパクトはあると思うんです。その家族に規定された個人がまた家族を形成すると、その家族に基づいて子どもが育っていくような。極論ですけれど、そういう側面はあると思うんですよね。

 


★ワタシのひとりごと(2)

鼎談中、〈家族になる〉をこんなふうに勝手に分類しました。

 A 社会通念上の〈家族〉、あるいは原体験としての〈家族〉を形成する

 A’ 社会通念上は家族とは認識されないけれど、それに近しい関係性としての〈家族〉を形成する

お母さんと小学校の先生の区別がつくようになる過程のように、原体験としての家族Aのもとにあるときは、家族Aと比較して他者が区別されていく。けれど、一人暮らしを始めるなどして家族Aから物理的な距離が取られるようになると、家族Aを補うものを求めて家族A’が生じてくるものなのかもしれません。

…とすると、実家暮らしの長いような人は、家族A’は生まれにくいのでしょうか? あるいは、リアルタイムで家族Aに身を置きながら、別な家族A’をも築く可能性もあるのでしょうか?


★ワタシのひとりごと(3)

意思決定の源流としての家族というのは原体験としての家族Aを指しています。ただ、タテカワさんも極論だと断っているように、それだけが意思決定を絶対的に規定しているわけではないでしょう。家族Aの次に影響力を持つものと考えると、それはもしかすると家族A’かもしれません。家族Aが意思決定の川の源流だとしたら、家族A’のそれは本川とでも呼べるでしょうか。